次の日の朝午前十時に、山下さんが来た。
「どうだ? 調子は」
山下さんは部屋に入ろうとはせず、ドアの前で俺に話し掛けた。
「悪くはないです。入ったらどうですか? 春奈さんもいいって言ってますよ」
そう言うと、山下さんはバツが悪そうに頭をかき、
「結構だ。今日の五万円だ。また明日来るから、しっかりやれよ」
そこまで言うと、山下さんは素早く踵を返し、さっさと行ってしまった。昨日もそうだったが、今日も何か急いでいる様子で、その場から立ち去った。俺は煮え切らない気分のままドアを閉めた。
部屋では春奈さんがベッドに背中を預け、本を読んでいる。昨日から同じ本だ。俺は一体何を読んでいるのだろう、と思い後ろから覗いてみる。文章ばかりで、遠くから見ただけでは文字は読めなかった。
「外国の小説よ。ウラジミール・ナブコフって作家、知ってる?」
「知りません」
「ロリータっていう歳の離れた男女の恋愛物とか、愛のエチュードっていうチェスの達人の恋愛物とか。日本語訳だけど、とても面白いわよ」
恋愛物ばかりなんですね、と言おうとして口をつぐんだ。そういう事は行ってはいけないと、直感的に判断した。
「それじゃあ、いつか貸してくださいよ」
「いいわよ、ロリータはもう読み終わってるから貸してあげる」
春奈さんは持っていた本をテーブルに置くと、体を屈めてベッドの下に手を入れた。そこから一冊の小さな本を取り出した。それを受け取る。十代の少女の顔が映っている表紙だった。
「読んだら、感想聞かせてね」
一度も俺の顔を見ず、春奈さんはまた本を読み出した。俺は本を手にしたまま、何をしていいのか分からず、今まで一度も見た事が無かったもう一つの部屋に行こうとした。
「そっちは行っちゃ駄目。そこは私のプライベートルームだから」
「‥‥そうですか」
「ここで本を読んだら? 私は別に構わないわよ」
相変わらず、春奈さんはこちらを見ない。勝手にやってくれ、と言わんばかりの態度だ。昨日、風呂場であういう事があったから、こんな関係になっても当然と言えば当然だ。しかし、本当は互いの存在を忌み嫌っているわけではない。ただ、あの“掟”を守る為、互いに距離を保っているのだ。
だから、俺と春奈さんの関係は微妙だった。嫌いでもないのに、嫌いな態度を装い、このままでい続ける。苦痛と言えば苦痛だ。でも、それも仕方ないのだと思っている。実際、俺は春奈さんに個人的な感情を持っていない。愛してはいけない、と言われているからかもしれないが、まだ出会って一日しか経っていない。愛せと言われても無理な時間だ。
俺はベッドに寝そべり、本のページをペラペラとめくった。絵など一枚も無い。永遠に文字だけが続いている。俺は今まで漫画こそ読んだ事はあったが、小説など読んだ事が無かった。だから、正直あまり読む気にはなれなかった。
「あなたの上司、山下なの?」
ページをめくる音だけが響く小さな部屋の中で、春奈さんはぽつりと呟く。
「はい。とてもいい人です」
「私もそう思うわ。とても、やくざとは思えないものね」
「‥‥‥知ってるんですか?」
「当然よ。兄だもの」
「えっ?」
本から目を離し、春奈さんを見る。春奈さんも本から目を離し、私を見返す。喜んでいるわけでも、怒っているわけでもない、無表情をしていた。
「私ね、結婚していたの。だから名字が違うの。旦那は今は‥‥」
春奈さんは右手の人差し指を下に向ける。
「下? 下の階にいるんですか?」
「土の下よ」
その時、春奈さんは少し悲しそうな顔をした。俯いて、顔をベッドに埋める。子供っぽい仕草だが、顔は大人しか出来ない顔だった。
「殺されたの。順一郎の部下にね。五年くらい前かしら? その時はまだ、この辺りは順一郎さんのシマじゃなかったの。たくさんの小さな暴力団が小競り合いを続けていた。その時のゴタゴタの時に、私の旦那は山名順一郎の部下に撃たれて死んだの」
シーツをいじくりながら、春奈さんは遠くを眺めるような瞳で語る。
「悲しかったわ、とても。子供が欲しかったの。女の子がね。でも、子供が出来る前に旦那は死んで、あの人がこの世に存在した記録は何も無い。私の心の中の記憶しかない」
潤んだ瞳で、時折春奈さんは俺の方を見る。きっと凄く悲しいはずの目なのに、俺には妖艶な瞳に見えた。
「‥‥何で、俺にそんな話するんです?」
「別にそんなに意味は無いわ。ただ、話したかっただけ。あなたもあるでしょ? 人に昔話を聞かせたくなる時って。今、そうしてるだけよ」
俺の話をいとも簡単にあしらい、春奈さんは淡々と言葉を続ける。
「今は順一郎さんの女だけど、本当は嫌ね。あんな男とは寝たくはないわ。なにせ。私の最愛の人の仇だもの」
「だったら何で‥‥」
「楽だからよ。何の取り柄も無い女が、たった一人で世間を生きるのは大変。何だか、順一郎さんは私の事を気に入ったみたいだから。だから、あの人の女になったの。週に一回くらいセックスして、それで生きていけるなら、今はそれでいいと思ってる」
自虐的に笑う春奈さん。白いシーツの起伏から覗かせる目は、どこか疲れているかのように見える。時折、目だけを動かして、伺うように俺を見る。最初に見た、吸い込まれる印象は全く無く、濁っていて、ヘドロの塊のようだった。
「‥‥」
俺はまだ二十歳だが、色んな経験をしてきたと思っていた。十六で少年院に入って、十八で家を出た。それからは友人や水商売の女の家を点々とし、そして今ここにいる。普通の人なら、こんな人生は送れない。でも、この人も人生も凄い。自分の最愛の人の仇の女になって暮らしている。本当は憎いのに、抵抗する事も出来ない。
俺がもし、この人と同じ人生を辿る事になったら、俺はどんな行動をとるのだろう、とふと思った。
「何だか、沢山話しちゃったわね。もうそろそろお昼だし、ご飯でも食べに行かない? 兄さんからお金を貰ってるんでしょ? それに、部屋を出るなとも言われてないでしょ? 行きましょうよ」
春奈さんは急に雰囲気をガラッと変えて、そう切り出した。俺はいきなりの事に驚いてしまう。春奈さんはゆっくりと立ち上がって、俺の手を取った。
「昨日あんな事言ってたけど、やっぱりやめましょう。一緒にいる時ぐらい、私はあなたと仲良くしていたいわ。深い事さえ考えなければ、あんな掟、簡単に守れるわ。それに、外に行けば私よりいい女なんて山ほどいるじゃない」
さんざん言いたい事を言って、気が晴れたのだろうか。春奈さんは俺の手をぐいぐいと引っ張って立たせた。
次の日、時間通り山下さんが来た。しかし、その日は他にもう一人客が来ていた。組長の山名順一郎さんだった。
「春奈に会いに来たんだ。悪いが、外で時間を潰してきてくれないか? そうだな、午後
五時くらいには帰る。そうしたら、またあいつの世話を頼む」
琥珀色の杖を手にした順一郎さんは、俺の肩をポンポンと叩きながらそう告げた。その時の組長は、初めて会った時と違って、どこか頬が弛んでいるように見えた。俺は何の抵抗も出来ず、ただ、はいと答えた。
ふと後ろを振り向くと、春奈さんがどこか淋しそうな目で俺を見ていた。蔑むような、でも、何かを乞うかのような、そんな瞳をしていた。俺はその目を見るのが辛くて、視線を反らした。
それから山下さんの車に乗って、朝食を食べに、とある定食屋に向かった。空は青く澄んでいた。俺の心とは逆だった。
午前十一時だからなのか、人の姿はまばらだった。昔から立っているような、古くさいイメージの定食屋の奥の部屋に、俺と山下さんは座った。
「仕事は今週で終わりだ。その間、何も無ければ、お前はあのビルで仕事をするようになる。一人前と認められるんだ」
焼肉を摘みながら、山下さんは聞き取りづらい声で言った。
俺は安心したような、落胆したような、よく分からない気持ちだった。あと一週間もすればあの不思議な生活が終わる。でも、このまま終わってしまっていいのか。そんな気持ちがあった。
「山下さん、あの人は山下さんの妹だって本当ですか?」
それを聞いた瞬間、山下さんの顔が曇る。しかし、すぐに元の柔和な顔に戻る。
「‥‥あいつから聞いたんだな。ああっ、そうだよ。あいつの旦那が死んで、あいつが路頭に迷っていたから、俺が助けてやったんだ」
この人は、春奈さんの思いを知っているのだろうか。何のためらいも無く言う山下さんを見るとそんな疑問が浮かんでくる。でも、そこまで聞くのも失礼だと思い、別の質問をした。
「あの人の旦那さんは組長の部下が殺したらしいですけど、それも本当なんですか?」
ですか、と最後まで言おうとした時、山下さんは素早く立ち上がり、いきなり俺の口を塞いだ。そして、持っていた煙草の火を俺の目に近づけた。
「影一、そういう事は言うな。お前は順一郎さんの組にいるんだぞ。組長の悪口みたいな事は二度と、絶対に言うな。分かったか」
煙草の煙がちりちりと目を焦がした。その痛みよりも、山下さんがこんなに恐ろしい形相になった、という方に恐怖を感じた。山下さんは、いいか、と俺に答えを求めている。俺は震える首を懸命に縦に振った。
山下さんは俺の口から手を離し、元の位置に腰掛けると小さな声で、すまない、と答えた。
「‥‥それは俺にもよく分からない。あいつに夫がいた事は事実だ。でも、本当に組長の部下にやられたのかどうかは分からない。あの時は、どこの組もくぢゃぐちゃだったから、誰も一人の人間の事なんて覚えてない」
気を落ち着けた山下さんは、煙草を灰皿の中でもみ消し、新しい煙草に火をつけた。
食事の後、山下さんと別れた。時間はまだ正午をまわった程度だった。時間はまだある。しかし、やりたい事も無い俺は、煙草をくわえながら当ても無く街を歩き回った。
俺がどんなに変わろうと、街は何の変わりも無く、そのままの風景でたたずんでいる。
人が過ぎて、時間も過ぎていくのに、変わらない。それに淋しさを感じる。自分だけがとり残されてしまっているような気になって、悲しくなる。
街以外にも、自分はとり残されている気がする。春奈さんからだ。女とは一日でああも簡単に態度を変えてしまうものだろうか。しかし、仲が悪いと嫌だから、と言われればその通りだった。だったら、何故最初からその態度をとらなかったのだろう。
俺には何故だかそれが腑に落ちなかった。一緒の場にいるのに、どこかずれている。そう感じてしまう。あまりにも場の変化が激しかったから、それについていけていないだけなのかもしれない。
「‥‥」
街を適当に徘徊した後、小さい公園に足を踏み入れる。何本目かの煙草に火をつける。
その間、考える事はやはり春奈さんの事だった。
春奈さんは嘘は言っていないように思えた。でも、本当に素直に信じていいのかも分からなかった。実はやっぱりこれも、俺を試しているだけなのかもしれない。頼れるのはあなただけだという雰囲気を匂わせて、俺を試しているのかもしれない。分からない。人の嘘を見抜く力なんか俺には無い。
でも、信じたい。話してくれた、悲しい過去。組長が来た時、俺に見せたあの瞳。春奈さんは何も言ってくれないけれど、でも、俺はそんな春奈さんが、助けを求めているようでならない。
過去の話をした時、自分ならどうしただろう、と思った。俺なら、誰かに支えてもらいたい。全てを打ち明けて、そして全てを受け入れてくれる人の背に寄り掛かりたい。
今まで、誰も俺を必要としなかった。母親も俺を捨てた。父も俺を愛してはくれなかった。誰も、本当の俺を見ようとしなかった。だから、あの人には必要としてもらいたい。俺に寄り掛かってほしい。そして、俺も寄り掛かり、生きていきたい。
あの態度が真実ならば、俺はそれを信じたい。
でも、あの人は組長の女だ。体どころか、心さえも一つになる事は許されない。
あそこに帰れば、あの人があそこにいる。今日も一緒に夕食をとるだろう。明日の夜も一緒に食事をするだろう。あの人の体を洗い、あの人の眠るベッドをメイキングし、あの人の為に食事を作る。なのに、何も出来ない。
手をのばせば届くのに、どこよりも遠い場所。そこに、あの人はいる。
「‥‥」
公園のベンチに腰掛ける。目の前に砂場があり、そこで数人の子供が遊んでいる。男の子が二人と女の子が二人だ。皆、幼稚園に行く格好をしている。おそらく、幼稚園の帰りにここに来ているのだろう。砂場の端にはその親らしい女性が三人、世間話に華を咲かせている。
女の子の一人が砂場を駆け回っている。男の子の一人がそれを追っ掛けている。鬼ごっこでもしているのだろうか。きゃっきゃっ言いながら、砂を蹴って走り回っている。その時、女の子が足を滑らせて転んだ。背中を砂場に叩きつけ、そのまま動かなくなってしまう。男の子が走り回るのをやめて、その女の子に近づく。
「大丈夫?」
男の子は心配そうな顔で、女の子にそう訊ねる。
「ううっ、痛いよぉ」
「ほら」
女の子が半ベソをかいていると、男の子が女の子に手を差し伸べた。すると、女の子は泣くのをやめて、男の子の手を取った。そして、立ち上がり、男の子にありがとうと言った。男の子は何か言おうとするが、苦々しく笑うだけだった。